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| デザイン・文・インタビュー:内田 麻衣子 | ||
日本では1989年のTBS「イカすバンド天国」(通称イカ天)で、元気に「次のバンドはこのバンドだいっ!」といっていたアシスタントをしていたことで有名な相原勇さん。
その他テレビでのゲストや司会、ミュージカルでも「ピーターパン」の主人公のピーターパン役を好演。97年9月に単身渡米。最初の一年目はコロンビア大学で英語の勉強に追われる日々を過ごす。2年目からCS放送のチャンネルホストに抜擢され、アメリカでのキャリアの基盤を作る。巨大なエネルギーが渦巻くNYでの生活も3年の月日が過ぎ去った頃、一大決心して舞台復帰の為に『もう一度、一から始めよう』と踊り、歌、芝居の基礎習得に励む日々が始まった。2001年9月11日、NYで同時多発テロを体験し、ギャラリー勤務の画商ファーガス・マクファリー氏と結婚、NYと日本で忙しく芸能活動をしている。
アメリカにきたきっかけ元婚約者との破局後、「生きる自信」をつけるために、何かを学びたかった。私が悲しみのどん底に落ち、這い上がる力もなかった時、NY在住の友人から電話がありすぐに彼女に会いに行きました。彼女は10ヶ月前に最愛のご主人を突然の交通事故で失い失意の日々を送っていたけれど、今では旦那さんの夢だった弁護士の資格も習得し、NYと日本を行ったり来たりの忙しい生活をおくっていました。その逞しさが欲しくて、聞こえたかどうかも分からないような小声で「NYに行こうかな・・・」と言ったら、(その時の私にはそれが精一杯の力だった)、彼女は即答で「おいでっ!」といってくれました。彼女の笑顔に惹きつけられ、「いま、この人の側にいたらもう一度生きる力を得られるかも・・・」と本能的にキャッチし、NY行きを決めた。どうしようもなく落ち込んでいたので、助けて欲しいけれどその助けを求める力もなかった。悲しみを乗り越えて生きようとしている彼女のエネルギーに吸い寄せられたような気がします。NYの魅力とは?等身大の自分でいられることです。NYは多人種・多宗教で、まさに人種の坩堝なので、常に「私が源」っていう事を強く意識して生きていけると思います。それに、またこのNYという大都会で頑張った人には道が開けると思います。 |
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NYでのボランティア活動をについて9月11日を体験し、"生きているだけで有り難い"という事を痛感したと同時に、その惨事が起こったときに何も出来ない自分の無力さが怖かった。それ以来、自分に出来る事、どんな風に生きていきたいか、どんな世の中を願うかと考えるようになり、そういう気持ちがボランティア活動のきっかけになりました。世界中の人が笑顔でいっぱいの世の中であって欲しいという願いが原動力です。ボランティアでは主に絵本の読み聞かせたり、一緒に歌を歌ったりします。また、今年の9月11日は犠牲者の方の冥福をお祈りするために千羽鶴を子供たちと一緒に折りました。ミュージカル「ピーターパン」主演についてブロードウェイミュージカル「ピーターパン」との出会いは、私の潜在意識の中に深く眠っている欲望を表に爆発させたように思います。17歳の当時はその"理由・原因"を自分でわかっていなかったので、ただただ「ピーターパンをやりたいッ!!」この言葉のエネルギーだけで突っ走って生きてきました。「ピーターパン」と出会うことによって、私は「歌が好き、踊りが好き、表現する事が好きッ!!」って事に初めて気がついて、芸能界の仕事を続けました。事務所が倒産したり、うまくいかな事もたくさんあったけれど、いつも私の中には「ピーターパンをやりたい」という希望の光が大きく、時にはかすかでも輝き続け、私を導いてくれた。だから無我夢中で追いかけた。全身全霊を捧げて生き続けた。念願のピーターパン役を得てからは役者として「舞台とは?」「演じるという事は?」いう壁にぶつかりました。 1年目に無我夢中で舞台の上手も下手も分からず、ただひたすら突っ走ってきた私は2年目に見事にスランプに陥りました。3年目の舞台が終わり、役者として成長し、次の舞台での希望で満ち溢れていた時、製作会社から「お疲れ様」といわれただけで、「私は来年もうピーターパンが出来ないんだ・・・」って現実の厳しさを叩きつけられました。今から思うとその頃の私は、一生懸命突っ走るだけで地に足が着いていなかったように思います。生きる希望を見失って廃人だった(当時はそう思っていました)そんな時、私をいちばん励ましてくれたのは元婚約者でした。彼も怪我で苦しみ自分の思うように勝負できない現実との狭間で葛藤し続けていました。やめるのは簡単、いちばん大切なのは続ける事。ケガが治ればまた好きな相撲ができる彼、私はやりたくても、もう2度とピーターパンをやる事はできない。「もうできないという苦しさに比べればまだ耐えられ る、怪我を治してもう一度土俵に立てるように一緒に頑張ろうよ」この気持ちが友情から愛情へと育っていったように思 います。 元婚約者からプロポーズを受け、さんざん悩み、考えた結果「Yes」と答えてからは、今まで表に立って仕事をしてきた自分から裏方になって相手を支えて生きていく日々が始まりました。でも、仕事を即座に止めた訳ではなかったので私自身の中で「光と影」の狭間で生きる新たな葛藤が始まりました。今だから言えるけれど、苦しかった。でも、頑張れば絶対に夢は叶うと信じていました。幼い頃からずっと欲しかった「家族の愛」を自分たちで創りあげていく喜びと希望がいつも崩れそうになる私を支えていました。 ただただピーターパンを夢見て生き続けた日々は、今から思うと「井の中の蛙」だったと思います。ピーターパンの役を失った時から私は現実を受容しなければならない試練にぶつかった。外海は波も大きいし、外敵もたくさんいました。それでも必死で泳ぎ続けたけれど、大きな波の渦中にいる間に自分でも気付かないうちに「自分自身」を見失ってしまいました。力尽きて倒れた時には、今まで信じて生きてきたものが全てなくなっていた。体中のエネルギーがナイアガラの滝よりも凄い勢いで落ちていき、何が起こったのか全く分からず、ただ怖かった。この肉体がこの世に存在している事が何よりも恨めしかった。死んでしまいたかった。でも、怖くて自分自身では事切れなかった。 |
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相原勇の名前の由来広島から両親の反対をおしきって上京したが、事務所は86年に倒産してしまい、19歳の時それでも夢を捨てきれない私は自分を邁進するために、髪の毛をバッサリ切って 名前を”相原勇”に改名しました。 自分で自分を守らなければ、誰も 守ってくれないと、私は”PeterPan”として生きていく決心をしました。 改名には周囲の人に反対されました。 20歳といえばアイドルが脱皮する年代で、そんな時期に『男の子』みたいな格好で男の子みたいな名前は、 絶対にマイナスだとさんざん言われました。 でも、私は自分の信じた道を突き進む事に余念はなかっし、両性で使える名前(無性別)にしたかったので、響きは”ゆう”って優しい が、勇気を持って前進しようと自分自身を励ます意味を込めて”勇”にしました。 ”原”は”Field”、で人生を表し、相原の”相”は”愛”がいっぱいある人生がいいと言う願いを込めました。 それと”I”(私)と”勇”はYOU(貴方)をかけており、 「一人ぼっちじゃないよ、皆がいるよだから勇気を持って生きよう」と言う思いも込めています。日本とNYを往復し忙しそうですが、体力維持や健康管理に特に気をつけていることは?そうですね〜・・無理をしない、疲れたら休む、早く起きて早く寝る、ちゃんと食べることですかね。(笑)ヨガや足裏マッサージは心身の疲れを癒し、新たな鋭気を補ってくれます。日本人であるが故のハンディはありますか?逆に日本人であるが故のメリットは?一般的にアジア人は、実年齢よりも若くみられるのは、時には嬉しくもあるけれど、馬鹿にされているって感じる事もあります(苦笑)今までの人生の中で影響を受けた人いい意味、悪い意味を含めて生まれたときから一番近い存在にある人の影響は多大です。 今となっては全てを受容し、相手と自分を許容し、寛容になれている自分がいるけれど、NYで人生を再スタートするまでは受容できない事がたくさんありました。私の母は専業主婦、父はサラリーマンでどちらかというと厳しく躾られて育ちました。何処の家庭でもある些細な夫婦喧嘩が私にとっては幼少時代からトラウマになっていて、「両親に愛されたい、私をかまって欲しい」という欲望がありながら、それを得られなくて、逆に反抗し、現実から逃避して生きていたように思います。両親、家族に対して「素直になりたい」と思いつつも、いつも素直になれない自分がいました。空想が大好きだったし、いつも自分の理想を追い求めて突き進んでいたようにも思います。でも、人は誰もが一人だし、思い・考え・感じ方も千差万別。私の両親、私の家族という所有物化した考え方が自分の望む物と異なる結果を生み出した時、私は孤独を感じるし、「こんなの本当の両親じゃない」って否定して自分を慰めていた。私が求めるものの情熱が大きすぎて、それが満たされないから、私は愛されていないってずっと思っていた。自分の事は自分が一番分かっていなければならないのに、一番分かっていなかったように思います。母にも、父にもそれぞれの人格、人生があって、彼らは彼らなりに精一杯、私に愛をそそいでくれていているという事を今はしみじみと感じ、感謝の気持ちでいっぱいです。それは自分の中で私と父、私と母という人の関わりという風に物事を捉えられるようになったからです。人生の基本は私が源という事に気付きました。そこから全てが始まって、自分が関わる環境がある。環境は常に変化していて、ありとあらゆる情報と状況を踏まえた上で、その都度お互いにとってハッピーな選択をするという事が大切だという事を学んでいます。そういった生活ができるようになると、この世でいちばん尊敬する人は両親であり、家族であるという事を強く感じます。彼らがいるから、今の私はこの世に存在していると思っています。 アイルランド人の旦那さん、ファーガス・マクファリー氏とその家族についてNYで生活し始めた頃の私は「日本の全て」が大嫌いで思い切り拒否して生きていました。日本人に会いたくない、話したくない、日本食食べたくない・・・「全ての過去を抹消して第2の人生をエンジョイするんだッ!!」が私のモットーでした。最初の一年間は「生きるため」に英語を学ぶので必死だった。コロンビア大を選んだのも、NYで一番厳しい学校って聞いたから。厳しい環境に自分を放り込んで、余計な事は考えたくなかった。心の何処かに30歳から人生をやり直すという事は物凄いプレッシャーだったのでとことん挑戦したかった。100%ベストを尽くして、それでダメだったら悔いもない。そこからまた考えようという感じでした。2年目は英語の勉強も必要だけれど、生きるためにはお金も必要。運良く、友人が新しいTVチャンネル「She TV」を立ち上げるため番組のホスト役を探していたので、「芸能界の仕事は2度としない」と誓って日本を離れたけれどアメリカで新しい事に挑戦するのはやりがいがあると思い始めました。実際、アメリカで暮らし始めて私がアメリカでお金を稼げるのはこの仕事しかないという事も受容しました。日本では全部事務所任せでしたが、アメリカでは売り込み、スケジュール調整、ギャラの交渉などすべて自分でしなければならない生活に追われ、あっという間に一日一日が過ぎていっている頃、友人の紹介で現在の旦那であるファーガスに出会いました。 第一印象は「怖い、嫌い」(笑)彼は野心家で夢と希望、自信に満ち溢れていました。「こんなみっともない私・・・きっと馬鹿にされているんだろうな・・・」っていじけていた。最初の三ヶ月は友人10人くらいと月一回の割合で一緒にご飯を食べる程度のお付き合いでした。学校の全課程が終了した頃、自分の中に達成感があり、それがちっちゃな「自信」になりつつある頃、コンテンポラリー・ギャラリーでディーラーをしている彼から「Jackson Pollockのオープニングイベントがあるから、興味があったら一緒に行かない?」と誘われ、宿題からも開放されたので「Yesッ!!」と言ったのが始めてのデートでした。彼はアイルランドの大学時代に文部省の奨学生として京都大学に2年間留学して日本の現代美術を学んでいます。家族もみんな日本好きで、彼と彼の家族を通して改めて日本の良さ、美しさを受容できるようになりました。同時に「拒否、逃避しては何の進歩もない」という事に気付いた。彼の家族はよくNYにも来るし、自分の日本の家族より渡米してからは会っています。「私たちにとって、日本といえば写真で観るか、器や絵画でしかでなかったけれども、今は日本人の娘ができて本当にうれしい」といわれて、とても可愛がられています。 彼とその家族と一緒に過ごす事によって日本人としての自信が私の中で育んでいます。 アメリカでこれから夢をかなえようとする若い人たちに一言おねがいします。自分を信じて続けること。相手に、自分に寛容になること。創りだしたい世界を線濃く、色鮮やかにはっきりと描き続けていれば夢は必ず実現する。 と、私はそう信じて生きています。時間はかかるけどね(苦笑) とにかく、続けることです。
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