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| デザイン・文・インタビュー:内田 麻衣子 | ||
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自転車に惚れ、シアトルで自転車会社を設立。時間を見つけては、自然に恵まれたトレールを、大好きなバイクにまたがってひたすら走る。今回は、シアトルで20年、自転車三昧の生活を送ってこられた小野沢昭志さんをご紹介します。
小野沢さんは子供の頃からアメリカに憧れていた。アメリカに行きたい!という気持ちが強く、日本での学生時代、出会う人々にそんな気持ちを伝えていた。大学卒業間際になってもアメリカへの憧れは健在だった。卒業してもサラリーマンにだけにはなりたくない。そんな彼にひとつのチャンスが訪れた。会ったこともなかったアメリカに住む従兄弟と法事で出会い、その彼がスポンサーになるので是非アメリカ留学を!と薦めてくれたのだ。 1970年春、小野沢さんは三井大阪商船ブラジル丸の船上の人となり、横浜の港を離れた。途中、船はホノルルに寄港、そして目的地ロサンゼルス南のサンペドロへ入港した。14日間にも及ぶ太平洋航海であった。まずはLAでの三ヶ月間の語学研修、その後Washington State Universityへと移っていった。 3年半の留学生活の後、アメリカで結婚した妻と娘を伴って日本に帰国。家族を養わなければならないが特別の技能をもたなかった小野沢さんは、そこで最も嫌っていたサラリーマン生活に入ることとなった。 東京でのサラリーマン生活は、アメリカ・ボケ(小野沢氏弁)によるものか、小野沢さんはどこの会社にもなじむことができなかった。底がみえている上司を軽蔑し、会社や上司の悪口しか言うことのできない同僚たちを嫌った。ラッシュアワーの通勤電車では殴りあいの喧嘩さえした。このままでは気が狂ってしまう、小野沢さんは自分を見失いつつあった。 そんな毎日から小野沢さんを救ってくれたのが一台の中古ロードバイクであった。それが彼の自転車人生のはじまりとなったのだ。小野沢さんは、まず満員電車通勤からロードバイク通勤へと切り換えたのであった。 雨の日も風の日もロードバイクにまたがって東京中を走りまわり続けた1970年代半ば、小野沢さんは見違えるように元気になっていった。元気になればなるほど、小野沢さんは益々東京の生活を嫌うようになっていった。自然豊かなシアトルで自転車三昧の生活をしたい! そんな思いを強めていったのだ。「シアトルへ戻ろう!」 そう決心するや、彼は一月後には勤務先に辞表をだしていた。 |
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シアトルで大好きな自転車を!と決心したものの、家族6人の生活を支える具体的なアイデアは一切持っていなかった。そんな彼に、周囲は「アメリカでどうやって暮らすつもり?」と心配したが、小野沢さんはいたってのん気であった。「そうか、何をすべきか考えなくてはならない」と、そこではじめた考え始めたほどアメリカ行きを気楽に考えていた四人の子持ちの父親なのであった。 そんな周囲の心配をきっかけに思いついたのが自転車の商売だった。自転車と決めるや、小野沢さんは日本のメーカー各社に電話をかけた。今思えば馬鹿馬鹿しいほど拙劣な売り込みであった。「アメリカに子会社はいらんかね?」という電話をかけまくったのだ。企業がまともに相手にするわけがない。どこからも冷たく断られるだけだった。然し、反応を示した会社が一社あった。SAKAEという東京の自転車部品メーカーがそれだ。「アメリカに御社のアメリカ法人を設立させて欲しい」、薮から棒の仕掛けに反応を示したのだ。下手な鉄砲があたったことになる。全ては一期一会のタイミングであったのだろう。その頃のSAKAEは米国法人を設立すべきか迷っていたところだった。かくして、話はとんとん拍子に進み、小野沢さんはSAKAE USA設立のための契約を結び、再渡米する道筋をつけることに成功したのであった。 時、まさにマウンテンバイク誕生の頃。小野沢さんが手がけた新事業は波に乗って急成長していった。同時に、小野沢さんは米国自転車業界の中でも注目される存在として成長していった。トレード・ショーなどでのスピーチをはじめ、ディスカッションのパネラーとしての声がかかるなど、米国自転車業界内の中心人物の一人としての役割を果たすまでになったのだ。 そんな小野沢さんはアメリカで誕生したての新しいスポーツ、マウンテンバイクに最も近い場所にいた日本人であった。その上、英語が堪能。小野沢さんが、日本のメディアの間でアメリカ自転車事情の情報発信源としての位置を築くのに時間はかからなかった。 最初は、取材に応じることばかりであったが、小野沢さんが持つ脚力と心拍力は取材陣がアクセスしきれない山奥まで自転車を進めることができたので、メディア各社は、小野沢さんに、レポートや撮影までをも依頼するようになった。マウンテンバイクのパイオニアーたちと仲間の関係であったことも小野沢さんには幸いした。小野沢さんに頼めば取材のアポイントメントも簡単にとれるからだ。 取材されることで出来上がったメディアとの関係であったが、次にはレポート、そして撮影、そしてすぐに原稿まで依頼されるようになっていった小野沢さんだが、マウンテンバイク取材の頃ににつくりあげた人間関係によって、今では、自転車以外の分野にてライター・カメラマンとしても活躍している。 その後、SAKAE USAは、一部上場の森工業に買収されることになった。小野沢さんは、大企業の小さな一部となって滅私奉公の人生を強いられたくはなかった。大企業の傘下に入ってアメリカで自由な経営を続けることはできないと判断。そこで小野沢さんは自分で産み育てたSAKAE USAを離れ、自己資金を元手に、現在のSidetrak Incを起業した。1991年のことであった。 小野沢さんによって起業されたSidetrak社の製品の全ては、ハードコアーなバイクライダー小野沢さんのアイディアによるものばかり。米国自転車業界でのマーケティングは小野沢さんの得意技。雑誌に記事を載せてもらい、消費者やショップの関心をかきたてた上で、全米のディストリビューター向けに卸した。豊富な知識と経験をもとに、マウンテンやロードバイクのアクセサリーや部品を扱っている。 小野沢さんは、20代の頃「マーフィーの法則」という一冊の本と出会った。ちょうどロード自転車通勤をはじめた197年半ばのことだった。思い込み、自己暗示、刷り込みなどで自らをプラス思考で身を固めることの効果が書かれている本だ。この本との出会いは、その後の小野沢さんの人生に大きな影響を与えることとなった。 プラス思考による積極性の凄さは、小野沢さんをSakaeに接近させて「アメリカに子会社を興させてくれ!」という前代未聞の交渉に至らせたし、米国の自転車業界内ですぐに注目される存在となったのもプラス思考によるポジティブな態度の結果であった。メディアからは取材される側にいた小野沢さんであったが、何の経験もなくライターやカメラマンの仕事をするようになったのもポジティブ思考がもたらしてくれたもの。小野沢さんはそう言いきる。「プラス思考でいると苦労せずに多くのことが実現できるようになる。」多くを実現されてきた小野沢さんの言葉だ。座右の銘は何ですか?との質問に対して「重みのある本の名を上げられなくて恥ずかしいのですが、人生を大きく左右させてくれた本という意味ならばマーフィーの法則を挙げる他にないのです」と応えてくれた小野沢さん、これからもポジティブなプラス思考で他にない人生を切り開かれていかれるに違いない。 | |
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日本人ということで、それがハンディーに感じられたことは?小野沢さんは、在米20年の間、自分では日本人という意識を強くもちながらも、あいつは日本人だ、とか、この人は日本人です、と語られることは一度もなかった。 彼が興したSidetrak社も、商品を含めて日本とは一切無縁のもの。日本人としてハンディーキャップを感じたこともなかったし、それがメリットとなったこともなかったそうだ。メリットというならば、日本の会社などが日本人だからということで色々と仕事の話を持ちかけてくれることくらい。自転車メーカー・ラレー社のチタンプロジェクトのコンサルタントを依頼され、企画書を製作したことがあったが、ラレーは英国に本社をおく米国企業であったから、日本とは無縁の仕事であった。これも米国の自転車業界での小野沢さんのウエイトが大きかった為であろう。自転車をはじめたきっかけは?自転車に惹かれる理由は?小野沢さんが東京でサラリーマン生活中にロードバイク通勤を始めた理由は、ラッシュアワーの満員電車嫌いによるものであった。所要時間45分の電車通勤が、ロードバイクに切り替えることによって30分までに短縮された。 今でこそ往復で16kmという通勤距離は短いものであったが、この距離を自力で進むことができると知ったことは小野沢さんにとって新鮮な驚きとなっていた。 自力で進むその達成感、これが小野沢を自信へとつなげてくれることとなった。プラス思考とプラスの態度がプラスの結果をだしてくれる! マーフィーの教えのごとく、ロードバイクによって強まっていく自信は、昼休みそして帰宅前の筋力トレーニングへとつながっていった。プラス思考を強める小野沢さんは、会社や上司の悪口が多い同僚たちとの昼食や夜のつきあいからも自然と遠のくようになっていった。この頃の小野沢さんは高級ロードバイクに乗り換えていたが、一台一万円で買った中古のロード自転車が彼の人生とライフスタイルを完全に変えてくれたことだけは確かなことであった。 東京時代、一日に往復16kmの距離、それも一度に8kmという短距離しか走っていなかった小野沢さん、シアトルに住む今では、ランチタイムに20マイル(32km)、そして夕刻に20マイル、一日40マイル(64km)も自転車を走らせている。20代半ばでの走行距離が16kmであったが55歳の現在は64km。走行距離の伸びは加齢とともに下がるどころか、現実には大幅に伸びている。 事業をなさる上で大変だった事小野沢さんのビジネス論は徹底している。 自ら陥りやすかった経験からの教訓だという。事業というものは全てのアスペクトで大変なもの。ただガムシャラに働けば良いというものではない。商売とは支払ってもらって"いくら"なのです。注文をもらった、ということで喜んでいても駄目、相手が興味を示してくれととか、購入予定をだしてくれたということでヌカヨロコビしていても家賃を支払うことはできません。支払ってもらうからこそ、こちらも支払いができるということですね。ましてや、今日も一日忙しかった!と管理の仕事に時間が取られているだけでは、収入にすらつながらない。 事業というものは逆算。 “いくら“支払って欲しいのか? その為には、どれ程売り上げなければいけないのか? 売り上げの為の働きはどれほどか? 管理は二の次となりがちだが、一人で会社を立ち上げる人は、管理や整理整頓で忙しくするのではなく、支払いがなされることに集中するべきなのです。代金を受け取って初めて事業が存続するのであって、整理整頓庶務経理の仕事で忙しいだけでも駄目、売りっぱなしでも駄目ということです。 |
内戦が終わったばかりのグアテマラのジャングル奥地にそびえたつマヤ神殿の上で夜を明かし、人生について自問するマヤ最大の遺跡ティカルは神秘的な場所にあって、映画「スター・ウォーズ」にもそのロケーションが使われたことがある。 その撮影をした場所が「失われた世界」という神殿。ジャングルが薄暗くなるまで隠れて、小野沢さんは、夜、その神殿の上で明かすことにした。近くの木々には吼猿、クモ猿、そしてトゥーカンやオウムなどがツガイで戯れている場所た。ジャングルの地平線に夕日が沈んでいく、それは小野沢昭志さんにとって、彼が誕生し生き続けた1900年代最後の日本の誕生日の朝日でもあった。そんな晩、古のマヤの神々は小野沢さんに何を語ったのだろうか。 果たして、小野沢さんは、最初望んでいたように、Different perspectiveに身をおいて、人生を別の観点から見つめなおすことができたのであろうか。しかし、このジャングル訪問が、小野沢さんを次にはアマゾン・ジャングルへと結びつけていくものとなったことだけは確かであった。 ジャングルの知識と文化を保存するため『ジャングル・メディシン・セミナー』に参加社会学者ジョージ・ドレイク博士は、小野沢さんの自転車仲間。「ジョージは、アマゾン・ジャングルの先住民族がジャングルを後にして町に出ていくことによって、長年に渡って培ってきたジャングルの知識と伝統が消滅してしまうことを恐れました。彼らをジャングルに留め、文化、伝統、そして知識を次の世代に継承させる為に何ができるか? それがジョージと彼の友人で同じく社会学者である元国連本部長のグスターボ・ペレツ・ラミレツ博士が関心をもっていたことだった。その為にジャングル・メデイシン・セミナーの開催を考えつき、それのセットアップのプロジェクトへの参加に私は誘われたのでした。二人の社会学者は、ジャングルの先住民族らの生活様式を見世物にすることだけは避けたいと思っていた。カメラをぶら下げたアメリカや日本からの観光客の好奇心の対象にだけはさせたくない、というリスペクトがあったからである。 そこで考え付いたものがジャングル薬草セミナー。ジャングルの文化に敬意を払うだけの高い意識を持った人たちが訪れるような内容にしたいと願ってのことであった。 しかし、彼らにジャングル薬草セミナーを事業化して貰うた為には、訪問客たちが必要最低限の快適性を保つ上でのシャワーやトイレの設備、清潔なハット(藁小屋)、そして彼らを乗せて川を進むことができる木を切り抜いてつくったカヌーやエンジンなどが必要でした。その為に我々8人のメンバーは一人400ドルずつ寄付したのです。 社会学者たちの音頭で進められたジャングル薬草セミナーの基礎作りだった。2001年1月、小野沢さんはアマゾン・ジャングルへと向かった。 グアテマラに次ぎ、二度目のジャングルへの旅であった。 アマゾン訪問で知り合った先住民族のシャーマン孫娘の里親になる小野沢さんはアマゾンでジャングルの7歳になる女児の里親となった。里親といっても、スペイン語ではコンパドレ(Compadre)。"Com"とは"共同の"、という意味のラテン語。 共同の父親という意味で、その少女の父親と養育に関して”兄弟仁義”を交わしたようなもの。 中南米におけるコンパドレとは、単なる後見人とは違って責任が重い。南米、それもジャングルというハイ・リスクな土地での両親の死亡率は高く、子供達の誘拐が多発している。しかし、誘拐されて貧困に住む親たちが身代金を要求されることはない。誘拐された子供達は商品となって、乞食のシンジケートに安値で売り飛ばされて道端での物乞いを強いられる生活が待つ。稼ぎの全てを親玉から取り上げられるようになるのだ。稼ぎが少なければ一日の終わりに虐待されてしまう。誘拐された子供たちが臓器密売ルートに売り飛ばされれでもすれば、彼らの身体は解体されて、臓器をむしりとられて先進国へ密売されるのだ。 南米、特にジャングルに住む親たちは、そんな理由から、親が子を守りきることができなくなった時に引き受けてくれるコンパドレ探しに必死になるのである。 |
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これまでに自分に影響を与えた人幼い頃に父を亡くしたため、母親の存在感が大きいですね。母は「おしん」のような辛い目にあった女性ですが、決して他人を恨むことはなかった。こぼすことも、他人の悪口もいわないだけでなく、自分はボロをまとっても他人には惜しみなく与える人でした。なんといっても彼女が私に与えてくれた影響はとても大きいものでした。もう一人は高木先生。中学では柔道部主将、大学時代には部ではなく講道館で柔道をやっていました。 柔道の創始者、加納治五郎先生の高弟7人のひとりに高木先生がいらっしゃいました。 姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の兄弟弟子の一人だった方です。講道館で、その高木先生から、私は毎日のように首を締めていただきました。毎回 20〜30分と首を締めて頂くのです。意識は朦朧としていきます。抵抗はしません。絞められている間、高齢の為に絞め技しかできなくなった高木先生は様々な教訓を私にお話して下さいました。そのお話の数々が、今の私の思考に大きな影響を与えていることが感じられることが度々あります。 私が渡米した20年前といえば、マウンテンバイクとは知る人ぞ知る草の根の遊び程度でした。しかし自転車業界は既にこのスポーツに目をつけていたのです。私にとって幸運だったことのひとつは、部品メーカーの仕事を通じ、私が多くのパイオニアーたちと親しくなったことでしょう。 個性豊かな連中ばかりがいました。彼らからの影響も大きかったと思います。 最後に、ジョージ・ドレイク博士を含めないわけにはいきません。彼は我を省みず恵まれない子供達に助けの手を差し伸べ続けてきた人です。朝鮮戦争時代に一万人の戦争孤児を救っただけでなく、スラムから黒人の子をひきとり里親になってダウン症の子とともに養育し、今では私とともに私の里子のお姉さんの里親にもなっています。彼は子供たちを救いながら、社会学者として大学の社会学部の部長まですすみ、更には毎日70km前後の山道をロードバイクで走っています。忙しくてできない、時間がなくてできない、こんな言い訳は彼の口からはでません。彼も私に大きな影響を与えてくれている人です。 人間とは、例えそれが何であっても影響を受ける動物です。悪い友達がいればその友達から影響を受ける。良い友達がいればその友達からも影響を受ける。喫煙者との食事が多ければ自分も喫煙するようになることが多い。影響によって我々の考え方や生き方までもが形成されていきます。できるなら、素晴らしい人をまわりに置いてその影響を受けたいですね。そして悪い生活習慣を持つ人たちからは離れるべきです。そんな意味で、私には恵まれた人間関係があるといえます。 日本の自転車業界をどうおもわれますか?70年代、私が都内自転車ツーキニストだった時代、都内で他にスポーツ自転車なんて見かけませんでした。 埼玉奥地に、吉田八重子という女性の自転車選手が住んでいて、その人がトレーニングを兼ねて都心まで自転車通勤という記事を目にした程度で、実際に他にロードバイクにした記憶がないのです。 それが今では、あちこちで見かけます。 スポーツ自転車市場が成長しているのでしょうね。自転車雑誌も増えているので、そういうことだと思います。しかし、日本は未だゴミチャリ(失礼!)ママチャリ市場です。 駅だとか買い物の為のサンダル代わりに使われているだけ。自転車の位置づけが低い為だと思います。情けないことです。アメリカのスポーツ自転車市場は年間1400万台ですが、日本ではそれが年間に100万台にも満たないのですから比較にもなりません。感動を受けた映画ベスト3は?「Saving Private Ryan(邦題:プライベート・ライアン)」(1998年)、「Schindler's List(邦題:シンドラーズリスト)」(1993年)、最近では「The Pianist(邦題:戦場のピアニスト)」(2002年)です。小野沢さんの1年後は?10年後は?リタイヤーして、好きな書き物や写真撮影のために中南米を旅すること。10年後は、自転車レースに積極的に参加して、年齢別で上位入賞すること。 ジョージ・ドレイク博士が数々の金メダルを獲得しています。 |
アメリカで成功する秘訣は?私には各分野で世界一になった友人が多くいます。彼らの全てに共通していることは、エッジで戦っているということ。 “エッジ”とは、刃先ということですが、“崖っぷち”と解しても理解できます。僅差で勝つほどまでに真剣にやっていて、中途半端な戦い方はしていないということでしょうか。アメリカ留学中の若者たちに向けて一言折角留学にきているのです。日本人同士で固まって"仲良し"をやっていないで、その輪から出ること。アメリカにはインスピレーショナルな人が多くいます。アメリカだからこそ、そんな人たちとの出会いのチャンスだって多いのです。そういう人達には、こちらから接していって、彼らからインスピレーションを受けることです。
起業を目指している方にアドバイス起業は目的ではありません。好きなことを我武者羅になってやっていたら起業していた、そういうことではありませんか? それには、強い好奇心、そこに向かう情熱、しかし、それらだけでは不足、行動も必要です。行動なしでは何も実現しないからです。これらの三つが必要ですね。観念だけが強く、情熱と行動力に欠けている人ばかりをみかけるのですが、観念だけでは自己満足で終わりです。 ドレイク博士は、大学の教授の中には図書館で本を読んだだけで知ったつもりになる人が多くいるが、彼らは知的マスターベーターでしかない!と言い切っています。今後の夢は?私は夢なんて持ったことないです。「小野沢さんは夢を実現しているのでうらやましい」という人が多くいますが、私は、やりたいことがあった時、それを夢として保管せずに、すぐに行動に移して実現してきただけです。 夢って行動をとらない人にとっての観念の遊びでしかない場合が多いのではありませんか? ですから、今後何をやりたいか?と問われれば、書き物と自転車レースといいます。しかし、それは夢ではありません。
インタビュー後余談小野沢さんおすすめのシアトルのシーフードレストラン「Ristorante Mamma Melina」 シアトルには雰囲気の良いレストランは多くありますが、イタリアの家庭的雰囲気があって、調理方法が日本人の舌にあうお店は、何といってもイタリア料理のRistorante Mamma Melinaでしょう。 アメリカのシーフードレストランには、蟹、ロブスターなどでも、茹で過ぎる店ばかりです。サラダドレッシングなどはかけ過ぎで、レタスがアップアップしているものまで見かけます。マンマ・メリナは家族揃って港町のナポリから移住してきた人たちがやっているお店ですから、本場イタリアお袋の味ともいえるのです。パスタもばっちりAl DenteのAt the teeth、歯ごたえあり!といえます。 「Ristorante Mamma Melina」 4759 Roosevelt Way NE Seattle, WA 98105-4723 Phone: (206) 632-2271
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